日本の賃貸住宅は、なぜここまで貧しくなってしまったのでしょうか。
今までの日本の歴史を追えば、自ずとその答えは見つかります。
今から50年程前の高度成長時代が始まったばかりのころ、関西を中心にアパートが次々に建設されました。
工場で働く人のための木造住宅であり、とても住居とはいえない粗悪なアパートでした。
これを「木賃アパート」と呼んでいます。
これらのアパートは「建設、即、満室」が保証され、家賃収入が得られるため、年2割から3割以上の運用利益が見込まれる投資物件でもありました。
投資家や地主のニーズに応えるように、木賃アパートは近畿圈から中国、四国、九州と拡大していきました。
東京は1955年から65年にかけて人口が急増しました。
とくに20歳前後の若者が増加したので、若者向けの安い住宅として木賃アパートが大量生産されます。
新宿区、中野区、杉並区、渋谷区、目黒区などの山手から、京浜工業地帯である品川区や大田区、零細商工業地帯であった荒川区や北区、豊島区など、人口が密集している地域は次々と木賃アパートで埋め尽くされていきました。
ちなみに、フォークグループ・かぐや姫の名曲『神田川』は、木賃アパートを舞台にした歌です。
この歌からも、木賃アパートの住人の生活ぶりは推測できます。
風呂もない三畳一間の部屋で生活していたのです。
投資家や地主は安普請であろうと一向に構いませんでした。
関西地区では、企業が従業員のアパートとして借りていたので、入居者の心配をする必要はなかったのです。
投資対象物件を見ることもなく、管理を専門の業者に任せて家賃だけを受け取っていたのです。
この構造で一番利益を上げたのは、木賃アパートの開発業者です。
安い農地に安普請の木賃アパートを建てて、都市の物件並みの価格で投資家に売りつけていたのですから。
しかし、やがて日本の産業構造が崩れ工場が縮小されると、木賃アパートから入居者が出て行ってしまいました。
代わりに不法占拠者や犯罪者が住むようになり、無法地帯と化してしまったのです。
そして劣悪な建物は管理もされず、ますます老朽化していきました。
現在でも、関西ではこの一帯は手をつけられないまま残っています。
東京にもまだ多くの木賃アパートが存在しています。
撤去させようにも、そこに住んでいる入居者を移転させる場所を確保しなければならず、また権利関係も把握できないほど複雑になり、簡単にはできないのです。
どの自治体もこの問題で頭を悩ませています。
阪神・淡路大震災で大打撃を受けた長田地区は、昔ながらの長屋や木賃アパートが老朽化したまま残っており、そこに一人暮らしのお年寄りや老夫婦が住んでいました。
そして震災の際には、多くの老人たちは崩れた建物の下敷きとなり、亡くなっていったのです。
もし、これらの住宅の危険性を事前に察知し、公団住宅などに入居させる措置をとっていたら、被害はここまで大きくならなかったのかもしれません。
何も考えずに大量生産された木賃アパートは、今の世の中にも悪影響を及ぼしています。
借家住宅も一度建ててしまったら、その地域の今後の運命を決めてしまうようなものなのです。
これが日本の賃貸住宅の始まりとも言えるエピソードですが、それから約50年以上経った現代でも同じようなことが起きています。
木賃アパートを現代に置きかえると、大手ハウスメーカーのプレハブアパートだったり、大手アパート会社の鉄骨アパートや木造アパートと同じであると考えているのです
が、このわたしの心配が徒労に終わればいいのですが・・・。